今年も桜が咲いている。また、我が世の春は盛りの人も多くいるだろう。
ただ、春を見ずに亡くなる人も同様に多くいる。春は出会いと別れの季節でもあり、桜の花がハラハラと散っていくのは何か物寂しい思いが横切る。
まだ見ぬ春を求めて「存在する」生きとし生けるもの全てに輝かしい瞬間が訪れんことを。
ゆっくりと、ゆっくりと。
VRやARは仮想空間、拡張空間をもたらす技術で、自然な視界の認識に留まらず、嗅覚、触覚までひとからげにして人間の認知の限界を広げていく。その広がった先から振り返るとこの今の世界がある意味、自然光では暗くて見えない世界ということになるのだろう。
さらに、今後AIの活用によっては、思考や思索、調査や判断まで置き換わっていく可能性も高い。そしてそれは便利なもの、人間の能力を補完するものとして、発展し続けるのだろう。
暗い道の向こうは輝かしい世界が広がるはず、というのは楽観的すぎる。暗い道から想像力を働かせて、見えないものを見ようとするプロセスや想像力を捨ててはならない。
揺るぎない日常を作っていくためには、こういった全てのことを体系化し、整理していくことが大切で、そのためにフレームワークが不可欠なものとなる。新しく会社を設立し、社内との接点を大きく再編成するとともに、多くのインプット、アウトプット、処理を再設計し、綺麗な流れに仕立て直すこと。
揺るぎない日常は、一つ一つのアクション、一瞬一瞬の判断、それらの蓄積と大きな視座から成り立っている。
人生の半ばを過ぎると解ってくることもある。人はなぜ生まれ、なぜ生き、そして死ぬのか。何を求め、何を残すのか。意味、意義、理由、そして不可知なことそのものとの向き合い方。ある一つの出来事をどのように体験するかの選択はこれから先の運命を決定づける。また、過去の出来事の意味付けをも含め、主体的な選択肢は自らの内側にある。地球レベルでの振動が活性化し、それに人も動物も植物も不可避的に影響を受け、おのずから変容を余儀なくされている。変容に慣れていない固着部分がストレスの要因となっている。
微細魂レベル、菩薩レベルの道徳には特徴として、一切衆生のために悟りを得ようという深い志が含まれる。魂の深みから自然に湧き起こってくるこの並みはずれた志は、一切衆生が神なるものの直接的顕現であり、それゆえ自らの<存在>のもっとも深い部分、大いなる自己として過ごすべきだという認識の成熟に基づいている。
2010年2月21日(日) 谷中七福神を訪ねる小旅行を思い立つ。田端駅から七福神を順次見て回り、そして最後に上野恩賜公園の西郷隆盛像に辿り着く。
万民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節倹を努め、職事に勤労して人民の標準となり、下民その勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行なはれ難し。

6.騎牛帰家(きぎゅうきけ)
牛にまたがっているとは。楽しげに笛を吹いているとは。
7.忘牛存人(ぼうぎゅうそんにん)
牛がいなくなったとは。のんびりうたた寝しているとは。
8.人牛倶忘(じんぎゅうくぼう)
なぜ空一円に飛躍する必要があるのか。空一円相とは。
9.返本還源(へんぽんげんげん)
自然に生きるとは。
10.入てん天垂手(にってんすいしゅ)
人を愛するとは。
http://www.katch.ne.jp/~hkenji/new_page_46.htm (服部健治さんのWebサイト)








都会に住んで忙しい時間を過ごしていると、自然のリズムから離れ、「個」とか「自我」が立ちすぎて、判断が狭く小さくなってしまうことも多い。「偶然」か「必然」かという判断さえできずに、頑迷の中に陥ってしまう。公園で「子供の声がうるさいので静かにしろ」とか、学校の周りで「合唱コンクールの練習の声がうるさい」とか寛容の少なさが気にかかる。ゆっくりと、ゆっくりと。「偶然」と「必然」の織りなす綾を楽しみましょう。
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社会人になって24年。会社としては浮沈が激しく、部長として経営にモノ申し続けているがもはや限界か。10月1日以降は、新しい親会社の管理下となる。今後3年ぐらいで抜本的な変革が行われるであろうが、どっちに行くのか?成功?失敗?