2010年2月6日土曜日

死にいたる病

キリスト者だけが、死にいたる病の何かを知っている。
人間が自己であり、自分自身にかかわる関係であるというのは、人間が一つの統合であるからである。それは無限と有限、時間と永遠、自由と必然の統合である。また、死にいたる病とは絶望であるとキルケゴールは書く。

この自己の必然の統合を現実的なものとしてとらえることは通常では困難であり、人は絶望と同義となる五蘊盛苦(ごうんじょうく)や四苦八苦の認識世界からは逃れ難い。さらに、死を選ぶ根拠がその理由如何やその規定如何によってどのように表現されようとも「絶望」ということとして説明される。

神のもとに存在の秩序を保ち、おのおのの人間が個別的な人間であることを意識する、そして「我思う、ゆえに我あり」とする。そのキリスト者としての我は、すでに死すら恐れないということ。
アプローチがキリスト=神から「許され」、それを知るキリスト者となることで生たる人の悩み=絶望の開放ができるということ。仏教の悟りから死を超越するというアプローチとは逆であるが、結果は同じことにつながるということだろう。

(四苦八苦)
生 老 病 死
愛別離苦 怨憎会苦 求不得苦 五蘊盛苦
(五蘊盛苦)

自分自身が生きている(心身の活動をしている)だけで苦しみが次から次へと湧き上がってくること。

○色(しき) =すべての物質を指し示す。この場合、「身体」機能が活発であることために起こる苦しみ
○受(しゅ) =物事を見る、外界からの刺激を受ける「心」の機能
○想(そう) =見たものについて何事かをイメージする「心」の機能
○行(ぎょう)=イメージしたものについて、何らかの意志判断を下す「心」の機能
○識(しき) =外的作用(刺激とイメージ)、内的作用(意志判断)を総合して状況判断を下す「心」の機能

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