2010年2月21日日曜日

西郷隆盛像 政の大体


2010年2月21日(日) 谷中七福神を訪ねる小旅行を思い立つ。田端駅から七福神を順次見て回り、そして最後に上野恩賜公園の西郷隆盛像に辿り着く。

昨年4月より「敬天愛人」との西郷南洲翁の座右を拝借し、ブログを開始してから、翁の足跡をたどるための鹿児島旅行を試みるもまだ果たせずにいた。今回は当初の想定にはなかったが、小旅行の最後に西郷像を拝むことになったのも何かの奇遇か。

(南洲翁遺訓より)
政の大体*は文を興し武を振い農を励ますの三つに在り、その他百般の事務は皆この三つの物を助るの具なり。この三つの物の中に於いて、時に従い勢に因り施行先後の順序は有れど、この三つの物を後にして他を先にする更になし。

大体*:本質











敬天愛人 西郷隆盛と銅像の由来

西郷隆盛は文政十年(1827年)12月7日薩摩藩士として鹿児島治屋町に生まれた。通称吉之助、南州はその号である。
若くして薩摩藩主島津斉彬に重用され、幕末内外多難の際、大いに国事に奔走したが、これに関連して奄美大島に流されること2回。
元治元年(1864年)許されて京都に上るや、朝廷の意を重んじて一旦は長州を敵としたが、後、木戸孝允と謀って薩長連合を結成し、慶応3年(1867年)12月ついに王政復古の大業を成就、その後も官軍の参謀として、大功を樹て、明治維新の基礎を確立した。
その間、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟の請を容れて江戸城の無血開場を実現、江戸を戦禍から救ったことはあまりにも有名である。その後は、故郷に隠遁したが、明治4年(1871年)正月、三条実美以下新政府首脳の懇請を受けて上京、参議に就任し、廃藩置県その他近代国家建設のための主導的役割を果たした。
然るに、明治6年6月いわゆる征韓論が閣議に上るや断固反対して、大使派遣による平和的修交を主張し、内治優先論を固執する岩倉具視、大久保利通等の反対に敗れて辞官帰郷。私学等を興して後年青年の育成に努めた。
明治10年2月当局者の謀に激した私学校生徒に推せられて西南の役となり、転戦7ヶ月余り、ついに敗れて城山に自刃した。9月24日享年51才。
そのため一時逆賊とされたが、明治22年2月、明治天皇の特旨により賊名を除かれ、正三位を追贈された。
この銅像はこれに感激した隆盛の旧友、吉井友美が同志と共に追慕の情を表すべく建立を計画したものであり、御下賜金のほか有志2万5千人の醵金を得て、明治26年起工、同30年竣工、我が国彫刻界の巨匠高村光雲の作である。
西郷隆盛の偉大な功業は、その信条たる敬天愛人の精神に発した仁愛と至誠没我の所産であり、日本の代表的偉人として今なお敬慕される所以は実にここにあるのである。

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