2010年12月19日日曜日

支点

進化と成長を加速させる時代において、より短い「時計時間」の中でより多くの気づきを体験する。これは、激しい感情反応ないしは反動を生む。この経験を高次意識にいたるプロセスとしてとらえ、つまり、意識の持ちようを非二元的な静止点から二元性へ移行させることによってバランスさせる。

このメカニズムとしての「支点」を理解することによって、自らのもつエネルギーの統御という課題を克服し、ポジティブな状態に自分を調整することができる。

また、この支点を理解することによって、外的な加速をレバレッジとして内的進化と成長への力として転位できる。

2010年10月17日日曜日

念ずれば花ひらく

 この言葉に出会ったのは昨年の10月12日、そしてこの写真は一年後の今年の10月3日(この石碑の持ち主も自分と同じ苗字という偶然)。

 仕事環境も方向感を失い、革新的なことに取り組めないことからくる閉塞感も漂っていたが、経験の蓄積もあり、精神的な安定や絶対的な自信は崩れることはなかった。

 一年間に2度の戦略部署の部長を経験することにもなり、まさに「念ずれば花ひらく」のとおりである。必要な時に必要なこと、必要な言葉が現れるという体験も積み重なり、確信的なものになっている。

☆☆ 進化の本質 ☆☆

1.レプリケーター

レプリケーターは、自己複製が長けているものはどんどんそれを押し進め、あまり得意でないものはせめる。

遺伝子:生物(物理的・ハードウェア)の進化のキー
ミーム:心(精神的・ソフトウェア)

2.マインド・ウィルスの3要素

・進入の手段
・正確な複製法
・他の人の心に伝達する方法
 
3.コントロール

 時間のスケールが遺伝子とは全く異なる時間のスケールで進み、とてつもない速さで進行していく。ミームの進化を人類や地球上の生物などにとって利益となるようコントロールしたければ、私たちはミーム進化に敢然と立ち向かわなければならない。

「利己的な遺伝子」リチャード・ドーキンス:オックスフォード大生物学者(1976年)

2010年9月20日月曜日

事随心

事随心

事は心に随う

心の在り方が、事々の在り方を決める、または事は心の在り方に由り、自然と決まってくる。

心の在り様について ‐ 対比

高・低、動・静、顕・隠、正・邪、正・負、強・弱、優・劣、有・無

心の定義もしてきたが、心・意・識の一つのフェーズとして、また、アスペクトとしての在り方があり、それがさらに形而上的な「事」つまり「現」および「顕」の在り方にも必然に近い規定をもたらすことがある。

自らの心の在り方を対比によって、よくよく自浄することが必要となる。

2010年9月5日日曜日

釈尊の教え

道人の道を行ずるには、当に本を念ずべし。何等をか本と為す。謂く、心・意・識を是を本となす。この三事皆見えず。生じ己って便ち滅し、本の意は優に生ぜず。是の意を得るを是を道と為す。本の意が己に滅すれば、痛みは無くなる。更に因縁の生ずることあらば便ち断つ。

仏に六潔意あり。謂く、数息、相随、止、観、還、浄なり。この六事は能く無形を制す。

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心の世界、意識の世界、無意識の世界という相互に一体化し、出入りがある世界の体系。これの中で自己という境界があるものを認識しつつも合一化させるプロセスおよび結果が「悟」ということになる。悟りが自分から離れていないかということは「心」と「意識」の世界の葛藤であり、この葛藤自体も忘れ去り、唯在ることに在るということが悟の姿である。無形を制すとは、即ち形のないものと一体になるということ。

2010年9月4日土曜日

位相

 現在の自分の位相を感じること。想定通りに進化しているか、時間価値の無限なる大きさに気がついているか、狭いビジョンに留まり息苦しくなっていないか。

 瞑想および超越へのプラクティスから離れていないか、自分自身が誰であるのかを思い出すことから逃げていないか。

 光明が現れ、世を照らすことに疑いを抱いていないか。

2010年3月28日日曜日

弓を引く8つの動作


足踏み:正しく足場を固める

胴造り:重心をしっかりと中心に置き弦の位置と矢の方向を確認し、息を整える

弓構え:的をしっかりと見定めて弓を構えようとする

打起し:弓構えの位置からそのまま静かに両拳を額の上に上げる

引分け:左右均等に力を入れ打起しの位置から弓を引く

会:力を入れすぎず最も弓を張った状態にする

離れ:胸を広く開いて矢を発する

残心:矢を発し、姿勢を変えず矢の行き先を中止する

2010年3月21日日曜日

書くということ

 20年来使い続けているシステム手帳に書き留めておいた「言葉」の整理。体系的なものには程遠いが、過去の認識を追認し、再度書き直すことにより判ることも多い。

1.自己とは何かという認識(Sein から Sollen へ)
牛が逃げたと自覚した人は、牛を探し求めざるを得ない。ソクラテスの「無知の知」、西田幾多郎の「善の研究」

2.真理に到達する4つの段階

 ① 良き師(善知識)に出会う
 ② 教えを正しく聞く(正聞)
 ③ 聞いたことを理に従って考える(如理作意)
 ④ 真理に到達する(涅槃と菩提)

3.第三の眼 - 肉体と心とをいわば止揚した何ものかが真理を見る 自分自身を見る

 肉眼(にくげん)、天眼(てんげん)、慧眼(えげん)、法眼(ほうげん)、仏眼(ぶつげん)

4.念(ねん)・定(じょう)・慧(え)の心

 Yoga ヨーガ      分離した身体・心を結びつける
    ↓           息に自分自身がなりきる
 止・観の二つの心           ↓

 息という自分の一部を通じて、自分に遍満する宇宙の真理に到ることができる

5.貪(どん)・瞋(しん)・癡(ち)・慢(まん)・疑(ぎ)・悪見

 貪:むざぼり 瞋:いかり 癡:ほうけ 三毒 6つの根本煩悩
 20の随煩悩

6.種子

 名言種子(みょうごんしゅうじ) - ことば
 業種子(ごうしゅうじ) -未来世 阿頼耶識
 本有種子(ほんぬしゅうじ)
 新薫種子(しんくんしゅうじ)

2010年3月7日日曜日

パラダイム・シフト

 釈迦は「シンサパーの葉」を数枚手にとって、世の中にはこの森全体の葉の数よりも多い葉があるが、我々が知っていることはこれだけである、と言って数枚の葉を見せた。現代ではケン・ウィルバーはホロンの階層には上にも下にも無限に続いていると言っている。時間は「始まりが無く、終りも無い」あるのは「今」だけで、過去も未来も永遠なのです。
 これから起きるであろう巨大なパラダイム・シフトは、古いパラダイムを否定せず、そのまま認め、従来のパラダイムを包含しながら、それとは全く異なる別世界に新しい枠組みを構成する形で出てきている。そのため革命の必要もなく、古いパラダイムを否定する必要もない。従って戦争、流血騒ぎを起こす必要はない。しかし、心なき人達は流血を起こしたがる。また、古いパラダイムの人は新しいパラダイムを恐れて、自己防衛のため、戦争をしかけてくる場合も考えられる。

 なぜこのような巨大なパラダイム・シフトが進行するのか。その理由は人間が進化・変容しているからである。人間の精神的構造が変わり、今とは異なる精神を持ち、考え方の違う人間が多数を占めるようになるはずである。どのように進化するのか、その分析は、今の学問体系ではトランスパーソナル心理学という分野に展開されている。その代表格の論客がケン・ウィルバーである。
 マズローは、人間性心理学を創設し、欲求5段階説を唱えた。生理的欲求から、最高の自己実現の上に自己超越欲求を加えた。ケン・ウィルバーは「アートマン・プロジェクト」で、人間の精神的成長の過程を分析した。そして、自己超越をしたレベル、即ちトランスパーソナルのレベルの最終にアートマンを据えた。人間の一生は自己超越を達成し、最終目標のアートマンを目指して進むことにあると解釈できる。これからの世界はトランスパーソナルのレベルに到達する人間が植えるということで、そうすればパラダイムは完全に変わってくる。これが巨大なパラダイム・シフトである。

 巨大なパラダイム・シフトの時代には、常に、反逆者、犯罪人、異常者等が多発し、それが目につく現象となる。しかし、世の中の趨勢はそれらの厄介者を背負い込みながら、深く、静かに、確実にパラダイム・シフトを進行させている。 

2010年3月5日金曜日

科学と宗教の統合

微細魂レベル、菩薩レベルの道徳には特徴として、一切衆生のために悟りを得ようという深い志が含まれる。魂の深みから自然に湧き起こってくるこの並みはずれた志は、一切衆生が神なるものの直接的顕現であり、それゆえ自らの<存在>のもっとも深い部分、大いなる自己として過ごすべきだという認識の成熟に基づいている。

元因霊レベル、賢人レベルの道徳は、あらゆる存在は常にすでに永遠に自由であると悟ることによって、一切衆生を開放したいという逆説的な大志を含む。このようなすべての顕現の根本的に自己解放的な性質を直接的に認識することが霊的科学のもっとも崇高な(そして逆説的な)部分を背後で支えており、<スピリット>の時間を超越した自由な性質を自己確認的に立証するものになっている。

2010年2月27日土曜日

自心・仏心・如来心












真言宗東覚寺 門前の言葉(2月21日)

自心を知るは即ち仏心を知る
仏心を知るは即ち衆生の心を知る
衆生の心は即ち如来の心
この三心 平等を知るのが大悟

2010年2月21日日曜日

西郷隆盛像 政の大体


2010年2月21日(日) 谷中七福神を訪ねる小旅行を思い立つ。田端駅から七福神を順次見て回り、そして最後に上野恩賜公園の西郷隆盛像に辿り着く。

昨年4月より「敬天愛人」との西郷南洲翁の座右を拝借し、ブログを開始してから、翁の足跡をたどるための鹿児島旅行を試みるもまだ果たせずにいた。今回は当初の想定にはなかったが、小旅行の最後に西郷像を拝むことになったのも何かの奇遇か。

(南洲翁遺訓より)
政の大体*は文を興し武を振い農を励ますの三つに在り、その他百般の事務は皆この三つの物を助るの具なり。この三つの物の中に於いて、時に従い勢に因り施行先後の順序は有れど、この三つの物を後にして他を先にする更になし。

大体*:本質











敬天愛人 西郷隆盛と銅像の由来

西郷隆盛は文政十年(1827年)12月7日薩摩藩士として鹿児島治屋町に生まれた。通称吉之助、南州はその号である。
若くして薩摩藩主島津斉彬に重用され、幕末内外多難の際、大いに国事に奔走したが、これに関連して奄美大島に流されること2回。
元治元年(1864年)許されて京都に上るや、朝廷の意を重んじて一旦は長州を敵としたが、後、木戸孝允と謀って薩長連合を結成し、慶応3年(1867年)12月ついに王政復古の大業を成就、その後も官軍の参謀として、大功を樹て、明治維新の基礎を確立した。
その間、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟の請を容れて江戸城の無血開場を実現、江戸を戦禍から救ったことはあまりにも有名である。その後は、故郷に隠遁したが、明治4年(1871年)正月、三条実美以下新政府首脳の懇請を受けて上京、参議に就任し、廃藩置県その他近代国家建設のための主導的役割を果たした。
然るに、明治6年6月いわゆる征韓論が閣議に上るや断固反対して、大使派遣による平和的修交を主張し、内治優先論を固執する岩倉具視、大久保利通等の反対に敗れて辞官帰郷。私学等を興して後年青年の育成に努めた。
明治10年2月当局者の謀に激した私学校生徒に推せられて西南の役となり、転戦7ヶ月余り、ついに敗れて城山に自刃した。9月24日享年51才。
そのため一時逆賊とされたが、明治22年2月、明治天皇の特旨により賊名を除かれ、正三位を追贈された。
この銅像はこれに感激した隆盛の旧友、吉井友美が同志と共に追慕の情を表すべく建立を計画したものであり、御下賜金のほか有志2万5千人の醵金を得て、明治26年起工、同30年竣工、我が国彫刻界の巨匠高村光雲の作である。
西郷隆盛の偉大な功業は、その信条たる敬天愛人の精神に発した仁愛と至誠没我の所産であり、日本の代表的偉人として今なお敬慕される所以は実にここにあるのである。

2010年2月18日木曜日

変容

生態系の、経済の、そして金融の危機的な問題は、世界の変容を必要とする決定的に重要な要素であるが、それらはすべてそれに対応する人間の意識の集団的変容の上に築かれるということを忘れないようにしたい。地球的な包容、多元的な世界連合は、普遍的、地球的なビジョン・ロジックを持った個人によってのみ、展望され、理解され、実行されうる。
そこで欠乏しているとされるのは、物質-経済的な不足だけではない。そうではなくて、そこでは人生の意味が、もはや自己、部族、人種、国家の中には見出すことができないのである。そこでは生存のために苦闘し、より深い、より真実な明日を望んでいる非常に小さな惑星の心臓の鼓動が伝わり、共通の人間性という血が流れる世界中心的な包容のなかに、そのコンテキスト、セラピア、オメガが解放を発見することに人生の意味が見出されるのである。
個人の発達で、一定の段階に達した時点では、「無形」のものへの急激な跳躍(エッグハルトの言う「突破」)がいつでも起こりうる。発達が高次に達するにつれて、跳躍はよりたやすく、起こりやすいものとなる。しかし、「無形」のものそれ自体は、跳躍の結果でもなければ、それによって現れるものでもない。それは、今、ここに、最初から、「本来の面目」としてビッグバン以前の顔として、あったのである。その顔は、すべての宇宙の一切の衆生からお互いに、単なる自己認識としてでなく、大いなる「自己」をお互いの中に認識するために見守っているのである。
空性として留まり、形態を包容する。真の開放は空性のなかにあり、決して形あるもののなかにはない。(もっとも二つは決して離れたことはないが)。こうして私が例えば突然、終わりなき形あるものの道を離れて、形ないものに自己を見出し、最高善(スムムボヌム)を実現したとしても、それでも、それでも形あるものは、心霊へ、微妙へ、そして何億とあるつねに、つねに獲得可能な形ある宇宙へと続いていく、止むことなく、終わることなく、劇的に。

2010年2月6日土曜日

死にいたる病

キリスト者だけが、死にいたる病の何かを知っている。
人間が自己であり、自分自身にかかわる関係であるというのは、人間が一つの統合であるからである。それは無限と有限、時間と永遠、自由と必然の統合である。また、死にいたる病とは絶望であるとキルケゴールは書く。

この自己の必然の統合を現実的なものとしてとらえることは通常では困難であり、人は絶望と同義となる五蘊盛苦(ごうんじょうく)や四苦八苦の認識世界からは逃れ難い。さらに、死を選ぶ根拠がその理由如何やその規定如何によってどのように表現されようとも「絶望」ということとして説明される。

神のもとに存在の秩序を保ち、おのおのの人間が個別的な人間であることを意識する、そして「我思う、ゆえに我あり」とする。そのキリスト者としての我は、すでに死すら恐れないということ。
アプローチがキリスト=神から「許され」、それを知るキリスト者となることで生たる人の悩み=絶望の開放ができるということ。仏教の悟りから死を超越するというアプローチとは逆であるが、結果は同じことにつながるということだろう。

(四苦八苦)
生 老 病 死
愛別離苦 怨憎会苦 求不得苦 五蘊盛苦
(五蘊盛苦)

自分自身が生きている(心身の活動をしている)だけで苦しみが次から次へと湧き上がってくること。

○色(しき) =すべての物質を指し示す。この場合、「身体」機能が活発であることために起こる苦しみ
○受(しゅ) =物事を見る、外界からの刺激を受ける「心」の機能
○想(そう) =見たものについて何事かをイメージする「心」の機能
○行(ぎょう)=イメージしたものについて、何らかの意志判断を下す「心」の機能
○識(しき) =外的作用(刺激とイメージ)、内的作用(意志判断)を総合して状況判断を下す「心」の機能

2010年1月31日日曜日

西郷南洲遺訓

万民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節倹を努め、職事に勤労して人民の標準となり、下民その勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行なはれ難し。
租税を薄くして民を裕にするは即ち国力を養成する也。故に国家多端にして財用の足らざるを苦しむとも、租税の定制を確守し、上を損じて下を虐げぬもの也。
会計出納は制度の由って立つ所、百般の事業皆これより生じ、経綸中の枢要なれば、慎まずばならぬ也。その大体を申さば、入るを量りて出ずるを制するの外、更に他の術数なし。
節義廉恥を失ひて、国を維持するの道決してあらず。西洋各国同然なり。上に立つ者下に臨みて利を争い義を忘るる時は、下皆これに倣ひ、人忽ち財利に趨る。
命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。この仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬ也。

2010年1月24日日曜日

自己の変容


 瞑想とはエネルギーの真髄である。このエネルギーは葛藤ありとあらゆる不必要な思考、感情的な追求、感情的な行動によって消耗されている。エネルギーは<私>と<私でないもの>という二元性、観察者と観察されるもの、思考者と思考の分離という二元性の中で起こる葛藤に使われてしまう。 
 この浪費浪費が完全になくなった時に「気づき」と呼べる、あるエネルギーの質があります。
 気づき―それは、評価も判断も非難も比較もなく、ただ注意深く観察すること。内と外のものを過去である思考の干渉なしにありのままに正確に見ることです。


クリシュナムルティ対話集

2010年1月19日火曜日

意識


 人間として生きる=「存在すること」と「行動すること」の各プロセスにおいて、「意識」と「無意識」は重層的に人生に影響を与え、また、他の人間との関係においても相互作用的に機能する。
 「存在する」というレベルでは、逆説的に「意識」は働かない方が恒常性を維持できるかもしれない。世代間を主として存続する生物としての生命維持の機構は、主として無意識として機能しているということもある。「行動する」というレベルでは、無意識に行動するという表現もあるが、意識が格段に機能していなければ統合的には失調に陥ってしまう。また、人と人との関係においても「意識」的に限らず、「無意識」的にもお互いの思いが伝わったり、理解につながるということも多い。
 このように表現される意識・無意識とは何か整理してみる。仏教の唯識思想、「唯識三十頌」では、前五識(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)という意識のほかに無意識とも解釈できる末那識(まなしき)、阿頼耶識(あらやしき)という深層意識層を想定した。(八識説)http://bit.ly/63xMSq (Wikipedia 無意識とは)
 意識しているとは、「私自身が意識していると、意識しているとき、自明的に存在了解されるもの」として、自我と同一視されている。この「自明的」というのが、何をどう客観的に定義できるのかが堂々巡りの出発点となる。私を私として定義するのが私の意識・自我ということであれば、ぐにゃぐにゃな物差しで物差し自身を測らなければならないという困難に直面する。

 さらに問題を難しくするのは、定義できない「意識」のさらに周縁部にとらえどころのない「無意識」があり、また、それが深層では「個人的無意識」と「集合的無意識」によって形成されているということだ。フロイトやユングの理論における「無意識」は「意識」すら明確に定義できない中では、参考となる考え方というにすぎない。この潤沢な曖昧性において、宗教や哲学が活躍するなかでの余地があったわけである。

 人知を超える理解および証明不能の事象をとらえるとき、人は藁にもすがるというか、それ以外には解はないとしての「神」の存在を持ち出してくる。そうでなければ、自分の中に「仏性」を見出そうとし、悟りを求める。
 結局は、「知らないということを知っている私は、知らないということも知らないという他者よりもすぐれている」というソクラテスの「無知の知」のパラドックスから抜け出ることはできないということか。ただし、神学者や仏教者の想定する「神」や「無の悟り」が実際にあって、それを把握できるチャンスはないわけではない。人はいずれ死ぬが、その際に「意識」・「無意識」すらもなくなり、「集合的無意識」に実体のない存在として触れることがあるか、ということだ。これもやはり証明は難しい。

2010年1月17日日曜日

十牛図 - Ten Cow Map


悟りのそれぞれの発展段階を牛と人との関係において絵として表現している「十牛図」。悟りとは一定の状態を保てるわけではない。

1.尋牛(じんぎゅう)
牛が逃げているとは、なぜ牛が逃げたのか。なぜ牛を探し求めなければならないのか。なぜ一人で牛を捜すのか。

2.見跡(けんせき)
牛の足跡とは何か。言葉の奴隷となるな。中を見る。

3.見牛(けんぎゅう)
何が見えるのか。牛が隠れているとは。

4.得牛(とくぎゅう)
牛をつかまえる綱とは何か。牛が暴れているとは。

5.牧牛(ぼくぎゅう)
荒牛をならすとは。

6.騎牛帰家(きぎゅうきけ)
牛にまたがっているとは。楽しげに笛を吹いているとは。

7.忘牛存人(ぼうぎゅうそんにん)
牛がいなくなったとは。のんびりうたた寝しているとは。

8.人牛倶忘(じんぎゅうくぼう)
なぜ空一円に飛躍する必要があるのか。空一円相とは。

9.返本還源(へんぽんげんげん)
自然に生きるとは。

10.入てん天垂手(にってんすいしゅ)
人を愛するとは。

http://www.katch.ne.jp/~hkenji/new_page_46.htm (服部健治さんのWebサイト)

2010年1月8日金曜日

ホロン - Holon


部分であるが全体としての性質を持ち、上下のヒエラルキーと調和し、機能する単位。全体を構成する要素がそれ自体、全体としての構造を持つ場合の、要素(部分)としてのひとつの全体。「全体子」とも言う。例えば、人体という全体を構成する要素(部分)である細胞も、各々の全体としての構造、機能をもっており、ホロンであると言える。
☆☆ 12の原則 ☆☆
1.リアリティを構成するのは、モノでもプロセスでもなく、ホロンである。
2.ホロンは四つの基本的な力を持っている。自己保存、自己適応、自己超越および自己分解の力である。
3.ホロンは発生する。
4.ホロンはホロン階層的に発生する。
5.発生したホロンは先行するホロンを超越し、包括する。
6.低位のホロンは高位のホロンの可能性を定め、高位のホロンは低位のホロンの確率性を定める。
7.階層が包含するレベルの数が、深いか浅いかを決定する。そして所与のレベルにおけるホロンの数を幅(スパン)という。
8.連続的に発生する進化は、より深い深度と、より狭い幅を持つ。
9.どのレベルのホロンを消去しても、それより上のホロンはすべて消去され、それより下のホロンは消去されない。
10.ホロン階層は、共進化する。
11.ミクロは、深度のあらゆるレベルでマクロと相関的な交換を行う。
12.進化は方向を持つ。
Ken Wilber 「進化の構造」 http://bit.ly/7feQA2

2010年1月1日金曜日

創造


万事生成消滅のプロセスと自律的・不可逆的コントロール。地球の自転や引力などの大きな力。それをどのようなことか理解し意味づけることの大切さ。

創造の輝きに沿って自然に生きよう。Seer(鑑賞者)としての素質をさらに磨いていこう。
身の周りのことから本質的なことまで、草木の生育から月や星の動きまで。「陰」と「陽」の意識。感謝と行動。