人間として生きる=「存在すること」と「行動すること」の各プロセスにおいて、「意識」と「無意識」は重層的に人生に影響を与え、また、他の人間との関係においても相互作用的に機能する。
「存在する」というレベルでは、逆説的に「意識」は働かない方が恒常性を維持できるかもしれない。世代間を主として存続する生物としての生命維持の機構は、主として無意識として機能しているということもある。「行動する」というレベルでは、無意識に行動するという表現もあるが、意識が格段に機能していなければ統合的には失調に陥ってしまう。また、人と人との関係においても「意識」的に限らず、「無意識」的にもお互いの思いが伝わったり、理解につながるということも多い。
このように表現される意識・無意識とは何か整理してみる。仏教の唯識思想、「唯識三十頌」では、前五識(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)という意識のほかに無意識とも解釈できる末那識(まなしき)、阿頼耶識(あらやしき)という深層意識層を想定した。(八識説)
http://bit.ly/63xMSq (Wikipedia 無意識とは)
意識しているとは、「私自身が意識していると、意識しているとき、自明的に存在了解されるもの」として、自我と同一視されている。この「自明的」というのが、何をどう客観的に定義できるのかが堂々巡りの出発点となる。私を私として定義するのが私の意識・自我ということであれば、ぐにゃぐにゃな物差しで物差し自身を測らなければならないという困難に直面する。
さらに問題を難しくするのは、定義できない「意識」のさらに周縁部にとらえどころのない「無意識」があり、また、それが深層では「個人的無意識」と「集合的無意識」によって形成されているということだ。フロイトやユングの理論における「無意識」は「意識」すら明確に定義できない中では、参考となる考え方というにすぎない。この潤沢な曖昧性において、宗教や哲学が活躍するなかでの余地があったわけである。
人知を超える理解および証明不能の事象をとらえるとき、人は藁にもすがるというか、それ以外には解はないとしての「神」の存在を持ち出してくる。そうでなければ、自分の中に「仏性」を見出そうとし、悟りを求める。
結局は、「知らないということを知っている私は、知らないということも知らないという他者よりもすぐれている」というソクラテスの「無知の知」のパラドックスから抜け出ることはできないということか。ただし、神学者や仏教者の想定する「神」や「無の悟り」が実際にあって、それを把握できるチャンスはないわけではない。人はいずれ死ぬが、その際に「意識」・「無意識」すらもなくなり、「集合的無意識」に実体のない存在として触れることがあるか、ということだ。これもやはり証明は難しい。